昭和51年06月14日 朝の御理解



 御理解 第71節
 「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」

 ここへは信心の稽古をしに来るのである。これはうまずたゆまず稽古を続けて進んでいかなければならん。まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけと、最後にむすんでおられます。ということは平穏無事の時という意味ですね。例えば日傭取りや病人はとこう言う様なところが出ております事は、これは特別な事情のなか限りという意味です。自分の都合のよか時だけ参っておればよいというのでは決してないです。特別な事情のない限りここへ参って信心の稽古をしておけと。
 最後にまめな時ここへ参って、信心の稽古をしておけと仰るのですからね。まめな時ということは、いわゆる平穏無事な時ということです。ところが何か願い事がある、何か困ったことがあるという時に参って来るから、信心の稽古にならんのです。ただお願い参り、自分の苦しい事とか、頼み事が心の中に一杯ありますから、入らないのです。御理解が耳に入らんです、教えが血肉にならないです。外の問題、難儀困った事とか、痛いかゆいが心の中にあるのですから。
 だからならここへは信心の稽古をしに来るのであると仰るその、その稽古はどういうところに焦点をおいて稽古をするかということがまた大事です。皆さんはどこに焦点を置いて稽古をしておるか。私今日御記念中に、活字で『結合』と言う事を頂いた。結婚の結、それから合は合楽の合です。結合。私はあのうお道の信心は神様と私共との結合だと。神我と共にありとか、同行二人とかと言う様な風に」申します。その実感なんです。その神我と共にありという実感は、そのまま安心に繋がり喜びに繋がるのです。
 神我と共にあり。なら御神米なら御神米をこうやって頂いておけば、もうそれで神我と共にありと言う様な風に思うておる人がありますね。神様と私共が結合しておる姿です。我神と共にありというのは。結合すると言う事は。どういう信心から生まれて来るかというと、親の事は子が頼み子の事は親が頼みと。あいよかけよでと仰るこの、ここのところの信心です。と言う事は親は子を生かし、子は親を生かしと言う事になるのです。そこに結合の道がある訳です。
 いわゆる合楽の道があるのです。いうならば、拝み合いということです。いわゆる合楽の道です。自分だけが楽をするのではない、神様と私共がお礼を言い合う楽をしあう。それであって初めて極楽と言う事が」言えると思うです。自分だけが極楽しておったんでは、それは極楽ではありません。例えばお生花ならお生花。お花ならお花が生けてある。松なら松を芯にして、なら菊なら菊の花が根じめなら根じめに使われてある。
 その松は根じめの菊を生かし、根じめの菊は松を生かし、そこに調和の取れた花であって初めて素晴らしいなと言う事になるのです。生かし合っておるのです。装飾品でもそうです。どんんな例えば宝石なら宝石をその身体につけておりましても、それが着ている服なら服、着物なら着物を生かすところに、素晴らしい調和が生まれるです。例えば金の指輪だけがギラギラ光っとってもです、却ってそのために着物の見苦しさが見えるような事であってはもうその指輪が殺してしまう訳になります。
 そこにです私は思うのですけれども、いうならば服飾なら服飾であっても、そのセンスというものが磨かれなければなりません。センスのよい人達が着物なら着物を着ておりますと、もう何からかにまで足ろうとる。ひとつもこう浮き出ていない。いうならばその全て、いわゆる身につけているもの全てが生かしあっておる。センスの悪い人がどんなにいい着物を着て、どんなにいい帯を締めておっても、センスの悪い人があるとおかしいです。これでは結合しておるとは言えません。
 ですからもう稽古はだから限りがないです。ましてや私共と神様との結合と言う事になりますとね、あぁやはりいっときお参りせんとすぐ、いわば間の抜けたような感じになるでしょうが。御理解頂いておっても何とはなしにさっと自分の心の中に入ってこない。結合しないのです。味でもそうです。甘い辛い、酸い、苦いと言った様なものがです、もう混然としていわゆる結合しておる時に、素晴らしい味と言う事になります。これは甘すぎた、砂糖がききすぎておるのです。
 ですからいかにその例えば味一つでもです、服飾の一つでもです、その結合の美というか調和の美というものがなからなければいけん。私共と神様との結合を、ぴったり吾神と共にありという実感。神様の御守護を受けておる。昨日、十三日会の研修でお話しした事でしたけれども、善導寺の原さんのその前の日の、美登里会に発表しておられた事を、まぁ皆さんに聞いてもらったんです。神様の御守護をこれ程しまでに頂いておるんだ、受けておるんだと実感した時に安心が生まれる。
 それが御神徳だという表現をしておられます。いかに神様の御守護を受けておるんだと、天地金乃神様の御恩恵の中に現在あるんだと言う事が、頭で分かっておるだけでは安心は生まれません。もうこれは本当に極限だと思います。神様の御守護を受けておるという実感があったら、そこにイライラもなからなければ心配も不安も焦燥もないです。御守護の中にあるんだからね、口では言うておっても、神吾と共にありと言うておってもです。そこに安心、喜びがなかったらそれはまだ本当のものじゃないと言う事。
 徳のない間は心配をする、神徳を受ければ心配はないとおおせられる。なるほど神徳とは、神様の御守護をこのようにも頂いておるんだと、ちょうどお風呂に入ってね、あぁ極楽と言っているあの実感なんです。冷たい水に手を差し込んで、いうならばその冷たい水を感じる実感なんです。神様はそのような実感をもって、しかも氏子助かってくれよ、おかげをうけてくれよという情念に中に、私共がひたっておるんだと実感できた時に生まれてくるのが安心です。
 ですから私共が神われと共にありとか、と例えば言うておりましても、または神様の御守護を受け通しに受けておるんだと、お話しを聞けば分かる分かる事だけは。けど問題は実感の問題なんだ。御守護を受けておるんだというその実感。それを肌で又は心で受け止めた時に生まれてくるのが安心ですから。そういういわば極めたところを身につけていこうというのですから、五年信心したから十年稽古したから、それで良いと言う事があろうはずがない、もう限りがない。ここへは信心の稽古をしにくる。
 昨日、特別奉修委員の時にお話しした事でしたけれども、祈願詞をこうやって奉上させてもらいます。以前拝詞が出来ました時には、もう本当何時間かで覚えた。ところが覚えようという気持ちがないのかも知れませんけど、二回、三回読んだって覚えません。もう皆さんの中には暗唱しておられる方がおられます。その気になりゃあ出来るのですけれども、私はつくづく昨日、私が斉唱をして、特別奉修委員の方たちと一緒に御記念をさせて頂きながら思うた。
 この拝詞をいうならば、その文字というか文章というか、それを追いながら目で追いながら読ませて頂いておると、もうそこからですその活字の一字一字の中から有り難いものが伝わってくるんです。これは覚えてしまってもずっとこれを見てあげた方が有り難いなという気がしたんです。皆さん拝詞を奉上される時に、大体拝詞の内容も何も頭に残らずあげておられたと言う事はなかったですか。終わりの時終わってしもうてから何を言うたやら分からん。ただガチャガチャ言うただけのこと。
 これは唱え言葉ではないですからね。本当にこの祈願が成就する事を、願いの言葉なのですからね。ですからこの一字、一字、実意丁寧神信心の生活を、進め給いてと言わせて頂いておる間にね、本当に実意丁寧神信心が、ここに入って来る気がするんです。だからもう早く覚えんでもよいというのじゃないですよ。覚えた方が言いけれどもね、これをやはり目で追いながら、声に出して唱えさせて頂く時に、また一段有り難いものを感じさせてもらいます。
 世にためしなきみかげを受けたまい、神と人との新しきあいよかけよの道たちて、神の頼みをそのままに、神も助かり人も立ち行く、金光大神御取り次ぎの働きを、永久に現したもうこそかしこけれ、教祖の神の御後受け継ぎ、世をかさね人の願いを親神にと。今日私はここのところをね、教祖様が神様の願いを受けられて、神の頼みをそのままに、それを受け継ぎ代を重ねて、同じ事がなされていく、いわばなしていかなければならない私共には、そういうひとつの責任があるのです。
 神も助かり人も立ち行く。そういう私共は世界を顕現して行く事にならなければならんのです。ですから信心の稽古の焦点というのがです、神も助かり人も立ち行くと言う事。いうならばあいよかけよで立ち行くと言う事。親の事は子が頼み子の事は親が頼みと言う事。その神様の頼みをそのままに私共が受けて、それを人に伝えて現していかなければならんのです。金光様の御信心はね、そういう一つの神の頼みをそのままにと言う所を眼目として、信心の稽古をさせて頂くならばです。
 神様との結合がいよいよ実感として頂けて来る様になるのです。私の頂いている教えの言葉の中に、「自然に溶け込んで行くと言う事は、自然を生かす事だ」と。自然それをここでは成り行きを大切にするとこう言う風に」申します。全ての事に御の字をつけて頂くという頂き方。それは全ての事というても、あれもこれもというのじゃないです。私のうえに現れて来る全てなんです。人の分までじゃないです。自分の上に現れて来るその事柄なら事柄に御の字をつけて頂くのです。
 自分の生活の上にです、生まれて来るその成り行きそのものを大切に尊ばせて頂くのです。それが自然に溶け込んで行く事です。神様のお心の中にに入って行く事です。もうこういう生き方をいよいよ身につけるならば、神様との結合は間違いない。神様との交流は間違いない。言うならばそれは神様を生かす事になるから。自然に溶け込むと言う事はそのまま自然を生かす事だ。神様が私共のためにいうならば、私共が神様本位の信心をさせて頂けば、神様がまた氏子本位の働きを現して下さる。
 そこにあいよかけよの道があるのです。三代金光様が私に下さっておる御教えの中に、「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますから」とあるのです。私共が神様におまかせすると言う事。いわゆる神様の御心の中に溶け込んで行くと言う事。そういう生き方になればです、神様がまた氏子の心の中に溶け込んできて下さる。結合、交流、成程そこからよいものが産みなされて来る事は、もう火を見るよりも明らかなんです。そういう信心を目指しての稽古でなからねばなりません。
 ここには信心の稽古に来るならどこを焦点に稽古をするか。神様を生かす事それを例えば身近に申しますならばです、合楽教会大発展の神願ご成就を心から願う時には、もう既に神様と一緒になっておる時です。唱え言葉じゃいかんです合楽教会がです御神願のもとに、例えばここに教会設立がなされたとするならばです、いやなされておるのですからです、その合楽教会が大発展をとげて行くと言う事は、そのまま教団の大発展であり、いうならば世界に和賀心時代を作って行こうとする働きの事に繋がるからです。
 合楽教会大発展のいわゆる、御神願が御成就にあいなりますようにと言う事をです、私は真剣に心から祈れる人は、必ず神様との結合がという実感が生れて来るです。これを本気で言よって御覧なさい心の中に、必ず涙がこみあげて来るです。合楽教会大発展の御神願ご成就にあいなりますようにと言う事を、本気で繰り返し唱えて御覧なさい。心の中が熱うなって来るです。それはそのまま神様の願いなのだからです。いうならば神様と結合したしるしを、胸が熱うなる思いで神様がお応え下さるからなんです。
 それが本当に心から祈れておるかどうかと言う事を、ひとつ確かめてみなければなりません。そこからねいうならば親の物は子の物、子の物は親の物と言う様な、無限大のおかげの受けれる働きが生まれて来るです。神様のものが私の物、神様から何か摂取しよう貰おう、頂こうとばっかり考えておると言う様な事が、信心のように思うておる人があります。どうぞどうぞというてお願いをする。そのお願いの焦点が間違っておる。始めは誰でもそういう難儀な事の中から、御神縁を頂くのです。
 信心が段々分かって参りますと、それではね、それこそ神様との結合なんていうのは及びもつかないでしょうね。ただ神様から摂取しようとするだけの信心だったら。神の頼みをそのままに教祖が現わされたように、私共もその教えを頂いておるのですから、その神様の頼みをそのままに私共が現していこう、社会に問いかけていこうというのが、今度十日から新発足になっておる運動であります。神の頼みをそのままに私共が人に語っていく伝えていく、しかも愛の心を持ってというのです。
 いうなら神心を持ってというのです。その愛の心も、神心も勿論愛というのは、神愛の事です。その神愛とか神心とかというその心がです、神様とは先ずは私共が結合しておらなければ神心が頂けるはずがないです。神の大愛の中に私共は溶け込んでおるおかげを、いただいてこそ初めて心の中に大愛が生まれて来るです。その愛を持って伝えて行かなければ人には伝わりません。また助かりません。ここへは信心の稽古に来ると、又ここへ参って信心の稽古をしておけと。
 始めにそれを言うておられ、最後にも又稽古で結んでおられます。中は病気をしたり日傭取りはそうしげしげと、参って来る事は出来んとこう言うておられる事は、私は病気とか日傭取りという意味じゃないと思うです。お互い特別の事情のない限りというふうに頂かなければならんと思います。そしてまめな時ここへまいってと仰っておられる所から申しましても、私共はまめな時の方が多いんだと言う事であります。いうなら平穏無事であるという時にここへ参ってというのです。
 ところがまめでない、腹が痛い、頭が痛いと言う時に参って来る。家にじっとしとって良い時に参ってくると言った様な事では本当の信心はできないと言う事が分かります。痛いとか苦しいだけで心の中が一杯なんですから、どのように御教えを頂いても入らん。まめな時に、心が健全なとき、または頭脳が明晰の時にお話しを頂いていく。それがそのまま血や肉にならせて貰うおかげを頂いて、いよいよ神様のお心の中に溶け込んで行く。神様との結合と言う事には色々あります。
 例えば純粋な、いうなら素直な信心と言う事が言われますよね。素直心のひとつにて雲の上までも上る道は開けて来るという。素直と言う事は正直と言う事です。正しく直ると言う事です。だからそういう心を目指すと言う事はもう既に神様と結合する前提です。素直に神様のおおせにそれを有り難く受けると言う事は、もう神様と結合しておる事なんです。それが積もり積もってというかね、それが続けられて行く所に、成程雲の上までものぼる道が開けて来る事が分かります。理屈抜きにしてそうです。
 もうそれは理屈抜きにして神様を生かす事になるからです。いうなら神様の思いが成就するからです。私共が素直になると言う事はね、あのう神様の願いが成就する事なんですよあれは。神様の願いが成就する時にです、神様は自分だけがならよか気分になってござると言う事は決してない。今度は氏子の願いが成就する事のためにお働き下さるのが神様なんですから。そういう例えばあいよかけよの、はたらきから生まれて来る所のおかげというものを、私は金光教では真のおかげだと言う風に思います。
 今日は信心の稽古の焦点を聞いて頂きました。そして教祖の神様に神様がお頼みになる、神の頼みをそのままに、神も助かり人も立ち行くという、生神金光大神御取次ぎの働きをです、私共も又神の頼みをそのままにです、受けてそれを伝えてしかも愛をもって、というおかげを頂いていく時に、祈願の心に添う事が出来ます。神様の心が分かる、神様の心に沿い奉る。そういう精進こそです、神様と結合する手段であります。そして初めて神我とともにあるんだなという実感が生まれてまいります。
 神様の御守護の中にある自分と言う事を実感できる時に、生まれてくるのが安心です。このようにも絶対の神様、このように間違いない神様からお守りを、受けておるんですから安心が生まれて来るはずです。だからそういういうならば高度な信心を目指してからのけいこ。ただこのおかげをひとつ頂けばよいから、なんて言う様なけちなもんではない。そういう信心では神様と結合なんては及びもつかない。
 神様との結合を願って行く信心。そういう信心を目当てにしての稽古ですから、いくらけいこしたからと言うてこれでよいと言う事は決してありません。そういう願いとか思いとかの大きさ、または深さ広さと言う様なものに触れていくのですから、もちろん限りないおかげにつながっていくことですから、限りないおかげを頂いて行く事のためにも、信心の焦点の狂いのない、間違いのないところに焦点をおいて、お互い信心の稽古をさせて頂きたいですね。
   どうぞ。